上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2013.07.06 柴田勝家
             柴田勝家(珍・極)
 極のグラフィックがどうも好きになれない(使ってる人ごめんなさい)
       柴田勝家(100信)
 ウチの100信の中でも数少ない金ピカ柴田。現在、育成中です。
 1522年尾張生まれ。(1526年、1527年生まれの説もアリ)
 1551年織田信秀死後、信行(信長の弟)の家老として仕える。
 1552年萱津の戦い(かやづのたたかい)で活躍。
 1556年稲生の戦い信行を織田家後継者として林秀貞と共に画策。信長織田吉法師アイコンに敗れる。
 信行死後、信長の家臣となった。しかし、尾張統一戦や美濃攻めでは用いられなかった。
 1568年勝竜寺城の戦いで活躍。
 1569年京都・畿内行政担当
 1570年佐久間信盛佐久間信盛アイコンと共に六角義賢六角アイコンを撃退。
 1571年長島一向一揆殿(しんがり)を務め負傷。氏家ト全氏家ト全アイコンと交代。※後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊
 1573年足利義昭足利義昭(稀)アイコンを降伏させる一員となる。
 1574年長島攻め佐久間信盛と共に参加。
 1575年高屋城の戦い本願寺顕如アイコン長篠の戦い武田勝頼(極)アイコンにも参加。
越前国八郡49万石北ノ庄城を対上杉謙信上杉謙信(極)アイコン最前線の司令官役となる。前田利家前田利家(珍)アイコン佐々成政佐々成政アイコン不破光治らの与力を付けられる。
 1580年加賀一向一揆を鎮圧。佐久間信盛の失脚により、筆頭家老へ。
 1582年本能寺の変後、越中国東部制圧に手間取り、京都に向かう事ができなかった。
清州会議本能寺の変後、織田氏後継者問題では信長の三男・織田信孝織田信孝アイコン推したが、羽柴秀吉秀吉コンが信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなる。
お市の方お市(稀アイコン)と結婚。
 1583年賤ヶ岳の戦い滝川一益滝川一益アイコン織田信孝と手を結び戦うも秀吉に敗北。
 辞世の句:夏の夜の夢路はかなき後の名を雲井にあげよ山ほととぎす(訳:夏の夜のように、短い間のことだったけれど、ほととぎすよ、我らの名を生きた証として、雲の高みまで届けてくれ)
 これは、お市の辞世の句に対しての返歌(人から贈られたり、言いかけられたりした歌に対する返答の歌)。
 お市の辞世の句:さらぬだに 打ぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな(訳:そうでなくとも夏の夜は短いのに、ほととぎすが夢路に誘ってくる)
 ほととぎすは夢を運ぶ鳥と呼ばれているらしい。


鬼柴田・・・武骨(無作法なこと)で秀でた武勇から呼ばれる。
かかれ柴田・・・戦場における突進力では随一という意味で評される。
瓶割り柴田・・・長光寺城に籠城した柴田軍は、六角義賢によって水を絶たれた。しかし、勝家は馬の体を水で洗ったり、水瓶を割ってみせるなどして余裕を示し、城内に潜入している六角氏の間者の目を欺く。そして出撃を前に城内の奮起をうながし、六角氏を打ち破ったことことから呼ばれる。
ルイスフロイスの評価
 信長の重立ちたる将軍二人中の一人
 はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人
 信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人


 柴田勝家柴田勝家アイコン最大の汚点は、稲生の戦いで後に仕える信長と対立した事であろう。(信長一筋ではなかった)
 賤ヶ岳の戦いでは前田利家に裏切られてさらに敗北・・・が、前田利家と対面し、先に撤退した利家を責めなかったばかりか、数年来の骨折りを謝り勝家は利家に対し、「秀吉と仲がよいのだから必ず降るように。私のことを思って再び道を誤ってはならない」と語ったという。
 信長の野望では、織田家開始時から兵力も高く戦闘も高い為、最前線で活躍します。
 個人的にも織田家の中でも、かなり好きな武将に入ります。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://kitahaci.blog.fc2.com/tb.php/37-a83886c9
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。