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2013.06.23 竹中半兵衛
竹中半兵衛
 竹中重治(たけなかしげはる) 通称:半兵衛※ここでは親しみ易い半兵衛で統一します。
                    竹中半兵衛(100信)
 1544年生まれ、美濃出身。
 1560年家督相続。菩提山城城主となり美濃国の斎藤義龍斎藤義龍アイコンに仕える。
 1561年義龍死去、継いだ龍興に仕える。
 同年、1563年伏兵戦術織田軍織田信長アイコンを撃退。※前進した軍勢が敗勢を装って伏兵のいる地まで敵を誘引する戦術
 1564年竹中重矩(弟)安藤守就安藤守就アイコンとともに(わずか16人で)稲葉山城を1日で奪取。
 稲葉山城を譲り渡すように信長に要求されたが拒絶し、龍興に返還。斎藤家を去り、浅井長政浅井長政アイコンの客分として3000貫で禄を得るが、1年で辞し隠棲。
 1567年浪人中の半兵衛竹中半兵衛(稀)アイコン信長が登用したいと考え、木下秀吉木下藤吉郎秀吉アイコンに命じ、「三顧の礼」で半兵衛を誘う。※三顧の礼(さんこのれい)・・・目上の人が格下の者に対して三度も出向いてお願いをすることであり、中国で劉備が諸葛亮を迎える際に三度たずねたとする故事に由来。
 1570年浅井方の2城調略。姉川の戦いにも安藤守就の部隊に参加。
 1578年中国遠征にて、宇喜多氏宇喜多直家アイコンの備前八幡山城を調略によって落城。
 1579年播磨三木城の包囲中に病に倒れた。(享年36歳、肺炎か肺結核)※大河ドラマ秀吉では、確か肺結核だった気がします。古谷一行さんが演じていて、配役がピッタリでいまだに、竹中半兵衛=古谷一行になってますw

黒田官兵衛黒田官兵衛(稀)アイコンとともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。
 秀吉の天性の才能を見抜き、信長に直接仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることを了承したとされる。
 いつも貧相な馬を買っては、それに乗馬していた。秀吉が「貴殿の身分でその貧相な馬はなかろう」と言うと、「名馬を買うと、実際の戦闘のときにその名馬を惜しんで戦機を逃がすことになりますから、これがいいのです」と述べたとされる。
 秀吉が半兵衛の功績に報いるため、加増を約束した書状を渡そうとしたが、「このような物は不用です。もし私の子が自身の不覚悟を忘れ、父にはここまで殿は懇意にされていたのに、なぜ私にはと恨みに思うようなことがあっては災いとなります」と述べて破り捨てたという
 謀反を起こした荒木村重荒木村重アイコン黒田官兵衛黒田官兵衛(珍)アイコンが捕まり、信長は長政(官兵衛の子)黒田長政アイコンの殺害を秀吉に命じたが、半兵衛は、秀吉に偽の首を進呈し長政を助けた。救出された官兵衛はこの事を非常に感謝し、竹中家の家紋竹中家家紋を貰い受けている。
 参考までに黒田家家紋黒田家家紋
 どこを貰い受けているのか分かりづらいですが、よーく見ると共通点があるので分かります。
 半兵衛の子の竹中重門の元服の際には官兵衛※烏帽子親を務めた。※男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親に為って貰い、当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例。
 秀吉秀吉コンは、半兵衛竹中半兵衛(織田信奈の野望)の病状を心配し、京都に療養させたが、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して陣中で亡くなる。
 最後の策として、三木城兵糧攻めを秀吉に授け、別所長治を降伏させている。

 信長の野望でも元祖軍師、寿命が短い為、全国統一前に亡くなる天才。
 調略も去ることながら内政面でも活躍できる能力値。
 のぶニャがでも、この半兵衛を使って10傑、7本槍を獲りました。
            奇襲陣形
 戦友から頂いた半兵衛ですが、ここ最近は出番も激減して売却してしまいました・・・
 しかし、我が里にはもう一人半兵衛がおります。
         大一大万竹中
 ほとんど出てません・・・なんとかして使いたいんだけどなぁw
両兵衛比較
 まったく需要の無い両兵衛比較。コストも違えば用途も違う。
のぶニャが内の評価はわずかながら半兵衛に軍配か!?


 
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