上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2013.06.12 森長可
 2.5コス騎馬に続き、2コス騎馬も比較してみた。
2コス騎馬アタッカー比較
 最近追加の為、上記に無い2コス騎馬は真田信綱(グラフィック残念)と坂崎直盛(全部残念)がありますが、ステータスが判明しておりませんので載せられませんでした。
 攻+策のバランスは百武が少し抜けてますね。
 攻撃特技に必要な攻速策で見ても同様に百武ですかね。
 個人的には、下の森長可織田信秀(攻略本買ったのも半分はコイツの為)を使っていきたい。森長可の場合は、一から育てる事になるのとカツカツの枠をまた圧迫させてしまうからちょっと厳しいのが実情。

                 【森長可(もりながよし)】
              森長可
 100信は、枠の関係でいなかった為、武将図鑑のちっさいヤツになってしまいました
 森可成(もりよしなり)森可成の次男(なぜかお父さんの方は100信で武将保護されていたw多分、グラフィックがカッコイイからだろうwちょっと嵐の相葉君に似てない!?)
 弟は森蘭丸森蘭丸

 1570年宇佐山城の戦いで父可成が戦死、兄可隆も同年戦死により13歳で家督を継ぐ。
 織田信長織田信長アイコン2から一字拝領し森勝蔵 主君からその名の一字を賜って※諱(いみな)につける。
 とは・・・森(苗字)勝蔵(字)長可(諱)個人の正式名称を諱と言います。
 一字拝領については、家臣への恩賞となる。信長の野望(覇王伝)であったシステム。ちなみに織田信長が下の名前に「信」が付く武将に一字拝領した場合、佐久間信盛→佐久間信信とかになります。また、佐久間信盛が君主で織田信長が配下になっている状態で一字拝領すると・・・織田信・・・漢字が違うけどおかしな事になりますねw

 織田信忠信忠アイコン配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。足軽大将などの中級武将が身分の高い武将の指揮下に入る事。
 1582年2月甲州征伐。先鋒部隊の将。信濃(武田領)へ。二度の軍規違反(信長の「前進を控えるように」という通達を無視して進軍を2回ほど・・・武蔵は急に止まれない
信長から恩賞として信濃川中島4郡(高井・水内・更級・埴科)海津城20万石。(重臣と遜色ない石高)
 1582年5月末柴田勝家柴田勝家アイコンと共に越後侵攻(上杉景勝上杉景勝アイコンの魚津城や春日山城)
 1582年6月本能寺の変後、越後撤退し、信長仇討ちの為、旧領へ帰還する際、信濃国衆の裏切り、一揆の煽動(気持ちを煽り、ある行動を起こすようにしむけること)
 木曽福島城(信長の野望ですぐ落とせる城ですねw)の木曽義昌木曽義昌アイコン(このツイッターアイコン需要無いだろw)暗殺の画策をしているという噂を受けたが、木曽福島城を回避せず、到着日を書いた書状を送るとわざと一日早い日取りの深夜に入城し、義昌の息子義利を人質にしたまま東美濃へ。東美濃でも遠山友忠が暗殺を画策するが人質に捕られている木曽家から手を出さぬ様、懇願され手出しされず旧領の金山へ。
 1583年頃から森武蔵守長可と書状等に自称する。少し時代は前後するが信長存命の時、関所で下馬(馬から降りる)して名を名乗るように言われたが、急いでいるとして下馬せずに名乗って通ろうとした。立ちふさがる関守を「信長公の御前ならともかく、この勝蔵に下馬を強いるとは何事」と斬り捨て、止め立てすれば町を焼き払うと叫んだので、木戸は開かれた。長可がこの一件を話し裁定を仰ぐと、信長織田信長アイコンは笑って、昔五条橋で人を討った武蔵坊弁慶がいたが、長可も瀬田の橋で人を討ったとして、今後は武蔵守と改めよと言ったという
 1584年小牧・長久手の戦い井伊直政井伊直政アイコン軍の鉄砲隊の狙撃にて即死。享年27歳。
 小牧長久手では池田恒興も戦死している・・・実に惜しい二人を亡くしています。
 
 父の可成と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から、「鬼武蔵」と称された。
 百段という甲斐黒の名馬を所有(金山城の石段100段駆け上がれるほどの健脚もしくは百段(反)全力疾走できる)。
                人間無骨(100信)
 長可は初陣(長島一向一揆攻め)でこの槍を振るい、27にも及ぶ首級を挙げたという。
  東山御物「沢姫の茶壷」秀吉豊臣秀吉アイコンから借金(金2枚)してまで手に入れた。
森長可の遺言状(カッコ内は訳です)
                         

一、さはひめのつぼ、秀吉様へ進上。但、いまは宇治にあり。(沢姫の茶壷を秀吉様へ)

一、だいてんもく、秀吉様へ進上。ふだにあり。(台天目を秀吉様へ)

一、もし、うちじに候はゞ、此の分に候。母に候人は、かんにんぶん、秀吉様へ御もらい、京に御いり候
  べく候。(もし、自分が討ち死にした時は、勘忍分の領地を秀吉様にもらって京都にいるべきです。)せんは、今のごとく、御そばに奉公の事。(仙千代は今のまま秀吉様のおそばで奉公してください。)※勘忍分・・・武家で、客分の者や討ち死にした家来の遺族などに給与する俸禄
※仙千代・・・森忠政(末弟)

一、我々あとめ、くれぐれ、いやにて候。此の城は、要にて候間、たしかなるものを、秀吉様より、
おかせられ候へと、御申すの事。(金山城は要所の為、しっかりした者をお願いします)

一、をんなどもは、いそぎ、大がきへ御越し候べく候。(妻たちは、急いで大垣の実家(池田家)へ移りなさい)

一、あしき茶の湯どうぐ、かたな、わきざし、せんに御とらせ候べく候。いづれもいづれも、ふだの如
  く、御とどけ候べく候。ふだのほかは、みな、せんにとらせ申し候。但し、なり次第(粗末な茶道具や刀、脇差は仙千代にあげ、札が付いているものはその札の通りに届けてください。札が無いモノは、すべて仙千代へ与えます。ただし可能な範囲で。以上のように、仙千代にお伝えください)

    天正十二 三月廿六日あさ             むさし  
     尾藤甚右衛門此御申候べく候 留申べく候

又、申し候。京の本阿弥ところに、秘蔵のわきざし二つ御いり候。せんに取らせ申し候。尾甚に御申し候べく候。
おこう事、京の町人に御とらせ候べく候。薬師のやうなる人に御しつけ候べく候。母に候人は、かまいてかまいて、
京に御入り候べく候。せん、こゝもとあとつぎ候事、いやにて候。十まんに一つ、百万に一つ、総負けになり候はゞ、
みなみな火をかけ候て、御死に候べく候。おひさにも申し候。以上。(京都の本阿弥のところに秘蔵の脇差が二つあるのも、仙千代にあげますので、尾藤にそのようにお願いしなさい。おこう(娘?)は京都の町人に嫁入りさせなさい。医者などがいい。母は絶対に京都にいて欲しい。仙千代が跡継ぎになるのは絶対に嫌です。
万が一、秀吉様敗北時は、城に火を放ち自害して欲しい。)

 この遺言状は名古屋市博物館にあるとの事。※部分の仙千代が跡継ぎになるのは絶対に嫌です。という部分については、本能寺の変で弟三人戦死し、自分もまた戦況が優れない小牧長久手の戦いの次鋒として死地に赴き、まだ若い弟にはせめてこういった嫌な想いをさせたくない為、家督を継がせたくなかったという意味だったらしいが、秀吉は、この遺言状を見て涙流しながら、森忠政(仙千代)に継がせた。
 
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://kitahaci.blog.fc2.com/tb.php/26-4ef32071
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。